非認知能力をアンケートで測定するだけでは、教育実践につながりにくい。子どもの立場から見れば、「勉強する力」や「自分で考える力」も認知できない——つまりそれ自体が非認知的な能力に映っている。けテぶれは「勉強する」を、QNKSは「考える」を、子どもが実行できる行為として切り出す装置だ。学びに向かう力を評価するなら指導しなければならず、指導するなら行為として切り出す必要がある。さらに、非認知能力を教育的に扱うには、サボる・失敗する・ズルするという可能性がある自由な場が必要だ。できない子がいるからこそ実践する意味があり、教師は小さな葛藤の片鱗を見取り、語り、現在地からの一歩を支えるプロである。
「非認知能力を測る」だけでは教育実践につながらない
近年、教育現場でも非認知能力への関心が高まっています。粘り強さ、目標達成する力、思いやり——そうした力の重要性が語られ、アンケートによる測定が広がっています。しかし、「非認知能力をアンケートで測るのって微妙だよね」という感覚は、実践を積み重ねた教師ほど持っているのではないでしょうか。
アンケートで数値が出たとして、その後どうするのか。測定した結果が、子どもへの具体的な指導につながらなければ、それは情報収集で止まってしまいます。もう一つの問題は、「非認知能力」という言葉が指す範囲そのものが人によってかなりバラバラだということです。粘り強さと呼ぶ人もいれば、協調性と呼ぶ人もいる。その輪郭が曖昧なまま「育てよう」という話になっても、どこに向かえばいいかが見えてきません。
非認知能力を教育で扱うためには、測定を超えた一歩が必要です。
「勉強しなさい」「考えなさい」も、子どもには非認知能力に見える
ここで少し視点を変えてみましょう。子どもの立場から見たとき、「勉強する力」そのものが認知できない能力に映っている、ということがあります。
「勉強しなさい」と言われた子どもが、どうすれば勉強できるかを知らないとしたら——それは「勉強する力」が、その子にとってまだ非認知のままだということです。「勉強する力ってどういう力なのかわからない」という感覚は、けして一部の子に限った話ではありません。「自分で考えなさい」も同様で、考え方そのものが見えていなければ、どこから手をつければいいかわかりません。
つまり、大人が「認知能力」と思っているものの中に、子どもにとっての「非認知」が含まれている。この逆転を意識することが、非認知能力の指導を考えるときの出発点になります。そして、その問いへの答えとして出てきたのが、けテぶれとQNKSです。
けテぶれとQNKSが果たす役割——行為として切り出す
「勉強する」や「考える」を、子どもが実行できる行為として切り出したものが、けテぶれとQNKSです。
けテぶれは、「勉強する」という見えにくい営みを、計画する・テストする・分析する・練習するという動詞の連なりとして提示します。名詞ではなく動詞であること——「行為として切り出す」——この点に大きな意味があります。行為になってはじめて、子どもは「実行できるかどうか」を試すことができます。何をすればいいかがわかって初めて、練習という回路が開くのです。
QNKSも同様の発想から生まれています。「自分で考えなさい」という言葉は、考え方を教えていません。しかしQNKS——問い・抜き出し・組み立て・整理——という手順として示せば、「考えることを学ぶ」ことが可能になります。考え方そのものを指導の対象にする、という発想です。

両者に共通しているのは、「非認知とされてきたものを、認知できる形に変える」という設計思想です。氷山に例えるならば、海面を下げて水面下にあった部分を見えるようにしていくイメージです。認知できる範囲が広がると、子どもは意識的に練習できるようになります。そしてその積み重ねが、海面下に広がる深い力——「学びに向かう力」の根っこ——をも育てていくことになります。
評価するなら、指導しなければならない
現行の学習指導要領では、「学びに向かう力」という観点が評価の対象に含まれています。この観点は、非認知能力と片足が重なっている領域です。ところが、評価するからには指導しなければならない、という当たり前の原則が、ここでは見落とされがちです。
指導していないものを評価することはできません。「学びに向かう力を評価します」と言うのであれば、その力をまず授業や学級の中で扱える形にして、具体的に指導していることが前提になります。
では、学びに向かう力をどうやって指導するのか——ここで多くの先生が「わからない」と感じるのは当然のことです。そもそも、「学びに向かう力とは何か」が明言されておらず、行為として切り出されていないからです。曖昧なまま評価の欄に名前だけ書かれていても、指導の手がかりにはなりません。行為として言語化されてはじめて、指導という営みが成立します。
けテぶれやQNKSは、その意味でも「指導可能な形にする」装置として機能します。学びに向かう力を評価するなら、まず学級の中でそれを扱える形にして育てる。その順番を意識することが、この問題の核心です。
できない子がいるからこそ、実践する
「けテぶれをやったら、できない子はどうするの」という問いがあります。「サボる子が出てくるのでは」という声もあります。これに対して、「だからやるんです」というのが、けテぶれを実践してきた者たちが共通して語ることです。
できない子がいるからこそ、土台から積み上げる実践が必要になります。
認知できる範囲を広げ、海面下から丁寧に鍛えていくことができれば、今まで「勉強が苦手」「しんどい」と感じてきた子ほど伸びます。逆に、今まで点数が良かったからといって認知できていた部分の大きさに甘えてきた子は、土台の薄さが後から顔を出すことがある。多くの実践の場で、できない子ほど伸びるという手応えが積み重なってきています。

「知る・試す・語る・使う・つくる」という学びの階段を着実に上っていくためには、土台となる学び方の習得が不可欠です。その土台を作るための手がかりとなるのが、けテぶれとQNKSです。できない子を「問題」と見るのではなく、「だからこそ実践する意味がある」と捉え直すこと——この視点の転換が、実践者を支え続けています。
「場の質」——自由があるからこそ、非認知能力が問題になる
非認知能力を教育的に扱うためには、もう一つの条件が必要です。それが「場の質」です。
自由進度学習の広がりとともに、「できない子どうするの」「サボる子どうするの」「計画を立てられない子どうするの」という声が増えています。しかしこれは、逆から考えるべきことです。サボれる状況がなければ、サボるかどうかという葛藤を教育的に扱えません。
決められた手順を机の上でこなすだけの場では、子どもはサボる選択肢を持ちません。同時に、自分のサボり心と向き合う必要もありません。「楽なほうに流れようとする自分」と出会い、そこから一歩踏み出す経験——これは、自由に選べる場がなければ起きないのです。
ズルする可能性がある場、失敗できる場、仲間との間で意地悪してしまうかもしれない場——そういう場でこそ、子どもは自分の現在地に出会います。授業の中にそうした葛藤の瀬戸際を作ることが、全人教育としての小学校の仕事です。 自由な場は、放任でも管理の放棄でもありません。非認知能力が問題として浮かび上がる環境を、意図的に設計することです。

自由な場では、動き出す子もいれば静観する子もいます。それぞれの動きがグラデーションを作り、場全体が広がっていく。その中で一人ひとりが、自分のペースと心と向き合える状況が生まれます。できない子がいて当たり前、サボる子がいて当たり前、現在地にいて当たり前——その当たり前を受け止めた上で場を設計することが、教育としての出発点です。
教師の役割——片鱗を見取り、語り、一歩を支える
自由な場を設計することと同時に、教師には見取りとフィードバックという具体的な役割があります。
大きな失敗の手前には、小さな失敗の片鱗があります。ズルしそうになっているその瞬間、サボりに流れそうになっているその場面——教師がそれを察知して語りかける。その子が自分の現在地に気づき、そこから一歩踏み出す力を引き出す。「語り・自覚・受け取り」という働きかけが、教師として果たすべき核心です。
「できないとか苦手とか分からないということに子どもが出会ったとき、それをどう支え、どう励まし、どうアドバイスするか」——多くの教師が、その思いから仕事を始めたはずです。けテぶれという枠組みの中でサボる子が出てきたとき、「だから怖い」ではなく「だからやる意味がある」と捉えられること。その視点の転換が、実践を豊かにしていきます。
非認知能力を教育的に扱えるのは、非認知能力が問題として現れる環境を作ったときだけです。アンケートで測定するのではなく、子どもが認知して実行できる行為として切り出し、葛藤や失敗が起きる場を設計し、その片鱗を見取って語る。そのプロセスの全体を通じて、学びに向かう力は育っていきます。