前回の放送で語った「家に閉じこもっているだけでは自分なんていうものは分からない」という発言を緊急訂正した回です。場所と自己喪失を一対一の因果で結ぶことの誤りを、ストリートファイターに没頭する人の具体例を通して解説します。自己理解は、どこにいるかではなく、自分の中心を動かすものに出会い、それに没頭できるかどうかに深く関わっています。
訂正の経緯
前回の放送の最後のチャプターで、「家に閉じこもっているだけでは自分なんていうものは分からない」という発言をしました。その後、自分で放送を聞き返したとき、「これはすぐに訂正すべきだ」と判断し、今回の緊急放送に至っています。
これは大きな間違いです。
家に引きこもっているということが原因となって、自分のことが分からないという結果を一対一で引き起こすということでは、全くありません。
「一対一の因果」という落とし穴
「外に出ないから自分が分からない」という図式は、直感的には筋が通っているように聞こえます。でもそれは、自己理解の条件を特定の生活形態に紐づけてしまう短絡的な論理です。
この論理の問題は、場所や形そのものに自己喪失の原因を求めている点にあります。「外に出ていれば自分が分かる」「家にいれば自分を見失う」という二項対立は、現実の多様な人間の姿を見落とします。自己理解とは、どこに身を置いているかという外形的な話ではなく、もっと内側から立ち上がるものです。
ストリートファイターに打ち込む人の話
あるブログで、次のような話が紹介されていました。家から一歩も出ない友人がいて、その友人はひたすらストリートファイターをやっている。ある時期にそのゲームと出会って以来すっかり虜になり、最新作の特定キャラクターの攻略を朝から晩まで追い続けている。バイトは長続きせず、今は生活保護を受けながらそういう生活を送っているという。
そのブログが素敵だったのは、そのような生活への心配と、その友人への尊重が両立していたことです。最低限の生活が成り立っているかという心配は残しながら、それでもストリートファイターに打ち込む彼の姿を愛おしく書いていた。
この例を通して考えてみると、この人は「引きこもった結果、自分を見失っている」のでしょうか。
そうではありません。自分はストリートファイターに打ち込む人間であり、心から愛してやまない人間であり、だからこそ毎日それをして過ごすという人生を選択し、その人生にとても満足している。 これはかなり深い自己理解の状態です。自分が自分として生きている状態と言えます。
自己理解は「場所」ではなく「出会い」から立ち上がる
自己理解の核心は、どこにいるかではありません。
自分の中心部分をくすぐるような何かに出会うこと、そしてそれに没頭すること。
これが大切です。ストリートファイターとの出会いは、多様な経験の中でそのコアをつかまれた瞬間であり、その出会いがあったからこそ、彼の人生は構築されています。場所がどこであれ、形が何であれ、自分のコアが動いているなら、それは自分として生きている状態です。
こうした生き方は、外側の価値基準から見て「一般的」でなくても、全く誰にも否定される部分ではありません。 本人の選択と満足に根ざした人生を、外から一方的に「自己喪失」と見なすことは、その人の人生そのものへの否定につながりえます。
多様な経験の本当の意味
では、なぜ多様な経験が大事と言われるのでしょうか。それは「外に出ること」そのものが目的なのではありません。
多様な経験は、自分のコアをつかむ対象に出会うための回路です。様々な場所、様々なコンテンツ、様々な領域に触れていくなかで、ある瞬間に「これだ」と感じるものに出会う可能性が広がる。ストリートファイターの例で言えば、多様な経験の中からそのゲームと出会い、激しくコアをつかまれた。そこから人生が構築されていった。
大事なのは、そういった出会いのための可能性を広げることです。「外に出ていれば自分が分かる」という話ではありません。自分のコアが動く対象と出会えるかどうか、それがすべての起点です。
音声発信における訂正の責任
今回の緊急放送を通して、改めて感じたことがあります。「聞き返すことの大切さ」です。
バーッと勢いで言ってしまうことで、誤解を生みそうな発言や、認識がずれた表現をしてしまうことがあります。これは音声発信ならではの怖さです。テキストなら書き直せますが、声で言い切ってしまったものは、その瞬間から独り歩きを始めます。
でも、聞き返して間違いに気づいたなら、すぐに訂正することが発信者の責任です。放送で言ったことを後から変えるのは勇気がいることかもしれませんが、誤解を放置することの方がずっと問題が大きい。
思いつきで語ることの熱量は大切にしながら、発言の内容とロジックには誠実であり続けること。それが長く続ける音声発信の土台になると、今回あらためて確認しました。