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自由な学びの場は何を育てるのか

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自由進度学習の本当の価値は、子ども同士が仲良くなること「だけ」にあるのではありません。個別最適な学びを自分の手で作り上げる力が育つ点にこそ、その核心があります。しかしその力は、最初から自然に発揮されるものではありません。自律した学習者になるためには、自律的に学ぶ経験を繰り返し積む必要があり、一歩目でサボりや浅さが生まれることは当然の前提です。さらに、非認知能力の育成だけを成果とするのでは不十分で、学力の向上と両立して初めて公教育の「次の一手」になります。今までの教育を否定するのではなく、その価値を保存し強めながら、より広く深い教育の姿を実現することが、根本的な説得力を生みます。

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仲良くなること、その先にあるもの

自由に学ぶ場を設けると、子どもたちが活発に動き、互いに関わり合い、いきいきとした様子が生まれます。関係性が育っていく、つまり協働的な学びの場が生まれるという点は、確かにそのとおりです。

しかし、ここで立ち止まって考えてほしいことがあります。楽しい活動を設計するだけでも、子どもたちはキャッキャと動き、仲良くなります。一昔前に注目された総合的な学習の時間でも、そういう光景は十分に起こりえました。では、自由進度学習の場が、それらと本質的に何が違うのか。

大切なのは、その場の中で何が育つかです。

仲良くなることは入口に過ぎません。問われるべきは、自由に学ぶ場で、どのような力が育まれるのかという一点です。

個別最適な学びを「自分で作る力」が育つ

自由進度学習が提供できる最も本質的な価値は、個別最適な学びを自分の手で作り上げる力が育つという点にあります。

先生が指示した内容を、先生が決めたペースで、先生の言う通りに進める授業では、個別最適な学びに対するニーズを満たす余地はほとんどありません。子どもたちが自分の学習ニーズに気づき、それを調整する経験を積むためには、ある程度の自由が渡される必要があります。自由が渡されて初めて、子どもたちは「自分はどう学べばいいか」を考え始めます。そこに、個別最適な学びの本当の入口があります。

けテぶれマップ
けテぶれマップ

このような学習活動のデザインは、「自律的な学習者に育てるために、自律的な学習にチャレンジしている」という言葉に端的に表れています。シンプルに言えば、個別最適な学びを自分で実現できるようになるためには、個別最適な学びを自分で実現してみようとする経験をたくさん積まなければならないのです。経験の積み重ねなしに、その力が育つことはありません。

「一歩目からできない」は前提条件である

自由進度学習を話題にすると、こういう声が聞こえてきます。「子どもたちがサボってしまうのでは」「学びが浅くなるのでは」。

この懸念への答えは、「全部そうです」というものです。

一歩目から自律的に学べる子どもたちであれば、そもそもそういう場を意図的に設計する必要はありません。講演会のように一方向に聞き続けるスタイルが成り立つ大人の場が存在するのは、参加者がすでに自己調整的な学習スキルを備えているからです。小学校の子どもたちはそうではありません。だからこそ、それを育てようとすることが、これからの公教育が目指すべき姿です。

一歩目では当然できない。サボりも起きる。浅くもなる。それを前提として、できない子どもたちに教師がどう関わるかを考えることが、これからの授業における大きな仕事になります。自由な学びの場の設計は、放任ではなく、自立に向けた練習環境の設計です。 信じて、任せて、認めるという関わりの中で、子どもたちは少しずつ自己調整の感覚をつかんでいきます。

学び方を学んでこなかった大人たち

今の大人たちを見渡すと、「学ぶ人は学ぶし、学ばない人は学ばない」という状況が広がっています。国際的な指標でも、日本の大人の学習参加率は低いことが指摘されています。

なぜこうなったのか。答えは単純です。学校で学び方を教えてもらっていないからです。

自分の学習ニーズを把握し、調整し、取捨選択する。そうした「学び方についての学び」を、子ども時代に経験できた人はほとんどいません。結果として、感覚的にできる人だけが学び続け、それ以外の人は学ばなくなるという分断が生まれています。生涯にわたって学び続けることのできる人を育てるというのは、現代教育の大きなテーマです。その起点は、子ども時代に「学び方を学ぶ」経験を積めるかどうかにあります。

学びのコントローラー
学びのコントローラー

計画を立て、テストで現在地を確かめ、分析して方向を見定め、練習を積む。こうした学習のサイクルを自分でまわせるようになることが、「自分で学べる人」への道です。学習力を公教育の中で意図的に育てることが、今まさに問われています。

やらされ学習の先に何が残るか

一方で、ひたすらやらされる学習を積み上げ続けた場合には、ある危険が潜んでいます。やらされなくなった瞬間に、やらなくなるという状態です。

外からの強制があれば動けるが、それがなくなると止まってしまう。これは主体性の不在であり、自律した学習者とは正反対の姿です。詰め込み教育が一定の学力を上げるとしても、それが主体性を失わせるものであれば、長期的には学ばない大人を量産するリスクがあります。

自由な学びの場を設計する意義の一つは、このやらされ学習から抜け出す練習の場を、学校という公的な教育の場に意図的に組み込む点にあります。

非認知能力と学力は「両輪」である

ここで確認しておきたいのが、非認知能力の育成だけを成果として語ることの限界です。

「仲良くなった」「粘り強くなった」「自分で考えられるようになった」という変化は、もちろん大切です。しかしそれだけで終わってしまっては、「活動あって学び無し」に陥ってしまいます。非認知能力と学力は両輪であり、どちらかに偏ればシーソーになるだけです。

非認知能力を育てた先に、ちゃんと学力も上がった、というところまで示せて初めて、公教育の次の一手としての説得力が生まれます。

詰め込みで学力だけを上げることはできる。でもそれでは主体性がなくなる。主体性を育てようと自由を渡したら学力が下がった。それでは前進していません。ただのシーソーです。本当の前進とは、学力という既存の価値を「保存し、さらに強めながら」、その上に非認知能力という新たな価値を積み上げることです。

今までの教育を「保存しながら更新する」

自由進度学習をはじめとする新しい実践を語るとき、つい「今までの教育はダメだった」という文脈に引きずられてしまうことがあります。しかし、そこには根本的な誤りがあります。

真に前進する教育実践とは、今までの教育の価値を当然のように実現しながら、プラスアルファで、もっと広く深い価値まで実現するものでなければなりません。今まで学力が上げきれなかったところが、この実践の方が学力も上がる。そしてそのプロセスで、粘り強さや社会情動的なスキルといった、点数には現れない能力まで高まる。この姿が実現されるとき、初めて「今までの教育を否定しているのではなく、保存しながら更新している」と胸を張って言えます。

新しい実践に共感した人々が、現場でこの視点を持って語ってくれること。確実に、今までの教育の価値は当然のように実現しながらも、プラスアルファでもっと広く深い価値までも実現している、とそこまで言い切ること。それが、自由進度学習をはじめとする実践が広がっていくための、根本的な説得力になります。

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