教員不足を解消しようと、各自治体が人材確保に奔走している。しかし多くの取り組みは、個別に声をかけて集めることに集中している。本質的な問いは「なぜ教育の場が選ばれないのか」にある。 自治体の教育環境そのものを変え、教師が「ここで働きたい」と感じられる場をつくること——それが、教員不足への構造的な一手になりうるという視点から、実際に進行している事例を紐解いていく。
「頼んで集める」から「選んでもらえる場をつくる」へ
現在、多くの自治体が教員不足に直面している。採用率が低下し、学校を回すだけの人員確保に苦慮しているという声は各地から聞こえてくる。取られる手段の多くは、「個人に依頼する」「声をかける」という一対一の働きかけだ。
しかし、そこには構造的な限界がある。人を個別に頼み込んで集めるという発想では、教育という場への根本的な魅力が変わらないからだ。
こちらから依頼するのではなく、「もう一度そこで働きたい」と言ってもらえるような環境に変えていくこと——それが、より本質的な一手ではないだろうか。これは採用担当者の問題ではなく、自治体の教育のあり方そのものを問い直すことを意味する。
単発型研修の限界と、継続的な学びの構造
教育環境の魅力を変えようとするとき、研修のあり方が重要な鍵になる。
各地で行われている教員研修の多くは、著名な講師が来て話を聞いて終わる「単発型」だ。それが悪いわけではない。しかし「いい話だったな」で帰ってくる研修が、先生たちの実践にどれだけ力として宿るかと問われると、やはり限界がある。満足度が高くても、現場に戻った後の実践に継続的な変化が生まれにくいというのが、単発型の根本的な課題だ。
奈良県の生駒市では、こうした問題意識から、研修の設計を一から見直す取り組みが進んでいる。単発で終わらせるのではなく、教師の学びを継続的・伴走的に支える構造をつくっていく——そのデザインを作り上げるプロセスに、葛原も関わらせてもらっているという。
研修のあり方が変わると、授業のあり方も変わる。毎時間の「ネタ授業」を追いかけて、その場の盛り上がりや満足度だけを目指す発想から離れ、子どもたちが自分で考え学び続ける力を育てる場へと転換していく土壌が生まれる。

一人の教師が職場で変わり始めたとき、その熱量が周囲に伝わるかどうかは、共有できる仲間が同じ職員室にいるかどうかに大きく左右される。イベントや研修で受け取った熱量も、孤独なままでは持続しにくい。仲間の存在が、受け取った熱の「保温可能性」を生む。これは研修設計の問題であると同時に、職場の場の質の問題でもある。
場の質が変わると、教師が「来たい」場所になる
生駒市では、自由進度学習とけテぶれが市内の学校に広がりを見せている。

けテぶれは、「計画・テスト・分析・練習」というサイクルを子ども自身が回していく学習の実践であり、自由進度学習と組み合わさることで、子どもたちが主体になって自分の学びを設計していく場が生まれる。これが市内の複数の学校で実践されていると、先生一人ひとりが「やってみよう」と動きやすい環境が整っていく。
重要なのは、自治体・教育委員会のレベルでその教育観が共有され、実践を後押しするバックアップがあることだ。「やってみること」を委員会レベルで賛同し推し進めてくれているという土壌があれば、先生は委縮せずに実践に踏み出せる。
一方で、同じ実践をしようとしても、周囲から白い目で見られたり、管理職から制止されたりする環境では前に進みにくい。「靴下の長さを何センチにするか」という話が今でも校長会レベルで議論されている地域があるという話は、現実として存在する。その差が明確になればなるほど、教師にとって「どの自治体で働くか」という選択は、ますます意味を持ち始める。
二段階で広がる採用への波及効果
教育環境の変化は、採用面に対して二段階の効果をもたらすと考えられる。
第一段階は、他地域から意欲ある教師が移ってくることだ。 隣の自治体でそういう実践ができる環境が整っているなら、転居をともなわない移動も現実的な選択肢になりうる。実際に、遠方の地域で高圧的な環境の中で力を発揮できずにいた教師が、生駒市という選択肢を知り、辞職して転入し、現在いきいきと実践を続けているという事例がある。「あの市に行けば安心して取り組める」という情報が広がれば、移動を希望する人は自然と増えていく。
この段階では、他の自治体から有能な教員を引きつけるという側面があり、公教育全体としてのパイの奪い合いになるという点は謙虚に認識しておく必要がある。それでも、力がありながらも潰されていた教師がのびのびと働ける場を得て、子どもたちの笑顔を増やし力を伸ばしていくなら、その市の教育としては確かにパワーアップする。
第二段階は、新規採用の再活性化だ。 学生が教育実習で主体的な学びの場に触れたとき、「教育ってこういうことだったのか」という気づきが生まれる可能性がある。大学での学びが古いままであれば、教育のイメージはどうしても硬直したものになりがちだ。しかし実際に子どもが主体になって学んでいる授業を目の当たりにしたとき、「先生ってそんな仕事だったんだ、じゃあやりたいわ」という層を掘り起こす力になるかもしれない。
かつて葛原が受け入れた教育実習生に、最初は教師になることへの意欲が高いとは言えなかった学生がいた。それでも一か月を共に過ごす中で、「先生になります」と言って出ていった。自分の学校生活の中でうまく力を発揮できなかったと感じている人ほど、「こんな場があったなら」「子どもたちにこういう場を与えたい」と強く反応するかもしれない——ワクワクできる上限が解放されるような場を知ったとき、人の動き方は変わる。

自由進度学習やけテぶれが根付いた場では、子どもたちが自分の学びを設計し、試行錯誤しながら考え続ける力(学習力)と、自ら生きる力が育まれていく。それは学習指導要領が長年にわたって中心概念として掲げてきたものでもある。教育実習でそういう授業に触れ、「自分もこういう場をつくりたい」と感じる学生が増えれば、教職への入り口が広がっていく可能性がある。
教育の本質に向き合うことが、すべての起点
教員採用の問題は、採用担当者だけの課題ではない。教育の場の質が何を意味するのかという問いと、切り離すことができない。
自治体が本気で教育のあり方を更新しようとするとき——単発型研修を見直して継続的な学びの構造をつくり、子どもたちが主体になって自由進度学習やけテぶれに取り組める環境を広げていく——そこには採用対策という動機もあるかもしれない。しかし中心にあるのは、「子どもたちが主体になって学び考え、生きられるような力を育てる」という、学校教育がずっと向き合い続けてきた本質的な問いだ。
その問いに誠実に向き合っている自治体が、結果として教師にとっての「ここで働きたい」という場所になっていく。失敗も多くあるだろうし、うまくいかないケースも当然出てくる。それでも真摯に受け止めながら前へ進んでいく自治体の姿が、周囲の教育委員会への変化を促す一手になりうる——そういう観測と期待を、この問いは指し示している。
「教育のあり方を変えること」と「教員不足を解消すること」は、同じ一本の道の上にある。