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「批判」より「圧倒的な実践」へ。けテぶれコミュニティを健全に育てる好循環

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コミュニティが健全であり続けるためには何が必要か。「メンバー同士で批判し合うこと」は正論に聞こえるが、実装はむずかしい。より本質的な作用は、圧倒的な実践との出会いが、実践者の内側に自己省察を起こすことにある。けテぶれコミュニティでは、コミュニティへの所属よりも教室での実践の回転数が評価基準となり、それぞれの尖りの違いが互いを永久に刺激し合う循環を生んでいる。

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観察のきっかけ:一人の実践者が場を揺さぶった夜

土曜の夜に、オンラインで無料の実践発表会が開かれた。この放送はその直後に録ったものだ。

北陸在住の実践者・サバカラスさんが発表してくれた。名古屋フェスでも一度聞いていたが、「あまりにも凄まじかった」ため、オンラインでもぜひということでお願いした。事前に内容を確認するでも、発表の流れを打ち合わせるでもなく、当日いきなりお願いした形だった。ところがふたを開けてみると、「自分の5億倍」という言葉でも追いつかないほどの実践が飛び出してきた。

この放送で語りたいのは、その内容そのものではない。あの場に起きた「作用」についてだ。あの発表が終わったあとに観察したことから、コミュニティの強さについて見えてきたことがある。

閉じた仲間づくりを目指しているわけではない

けテぶれに共感してくれる人たちが自然と集まる場ができている。それ自体は悪いことではない。サバカラスさん自身も「コミュニティがあったから強くなれた」と話してくれているし、有料のオンラインサロンも運営している。

ただ、そもそもの出発点を確認しておきたい。葛原学習研究所のミッションは、閉じた仲間をつくることにあるのではない。目的は公教育を変えることだ。「公教育変わらないと意味ない」という前提があるから、SNSで情報を公開し、熱を外に広げることを続けてきた。変に閉じて「自分たちだけでやろう」というつもりは全くない。コミュニティは自然な結果として生まれたものであって、目的そのものではないのだ。

熱の広げ方
熱の広げ方

実践の熱を広げるためには、情報を閉じないことが必要になる。だからこそ「全国けテぶれLINE」などのチャットで参加の間口を広く保ち、週末の無料の実践発表会を続け、発信を止めない。けテぶれ交流会は、仲間を囲い込む場ではなく、実践を外へ出すための場として機能している。

コミュニティが腐る危険:内輪乗りと客観性の喪失

一方で、人が集まれば「コミュニティ」と呼ばれる場には一定のリスクがつきまとう。内輪乗りや、内部のやりとりに誰も疑問を呈せなくなる閉鎖性だ。

外部的な視点や客観性が失われ、内側にいる人の言葉しか評価されない状態になると、その場は腐っていく。これは、より良い教育を目指す場としての機能を損なう。けテぶれコミュニティも構造上この問いから逃れられない。「場の質」をどう守るかという問いは、けテぶれに集まる実践者たちにとっても避けられない問いなのだ。

「批判し合う」は正論だが、実装できるか

健全性を守るために、真っ先に思い浮かぶ解決策がある。「メンバー同士がちゃんと批判できる関係になること」だ。いいねばかりでなく、「それはどうなのか」「ここは違うと思う」という意見交換ができる場にしていく——これは正論に聞こえるし、実際に正しい。そうあるべきだとも思うし、やれたらいい。

しかし、これは実装がむずかしい。

批判や否定のエネルギーをぶつけ合うことが、前に進む力に変換されるかというと、必ずしもそうではない。「やれたらいい」という選択肢の一つではあるが、最善かというと、そうでもないと気づかされた。なぜなら、それよりも上位の作用が見えてきたからだ。

圧倒的な実践が、内側から自己省察を起こす

その上位案とは、「圧倒的な実践が現れること」だ。

あの夜の発表で起きたことを考えてほしい。チャット欄に名前が挙がった実践者たちは、けテぶれコミュニティの中でそれなりに存在感があり、実践も相当積み上げてきた人たちだ。葛原学習研究所のミッションの中心で頑張っていると見られる人たちが、サバカラスさんの発表を聞いて「完全に食らった」状態になった。「俺もまだ負けるな」という感覚に陥ったのだ。

これと何を比べるべきか。「他者から君ここが甘いよね、ここはダメだよね」と言われることと、圧倒的な実践に突然出会わされて、それとの対比で内側から「俺ここはまだまだだな」ということが湧き上がってくること——この二つを並べたとき、場を健全に保つという観点でどちらが強い作用を持つか。

後者だ。「圧倒的な事実」の力だ。他者から外側に向けて裁かれるのではなく、目の前の実践に突き動かされて、内側から現在地が立ち上がってくる。これが、コミュニティを腐らせないために働いている本質的な作用だ。

実力者ほど揺さぶられる循環

もう一つ観察したことがある。揺さぶられた人たちの顔ぶれを見ると、初学者ではなく、既に相当な実践を積み上げてきた人たちだった、という点だ。

ライザさんが体育の授業づくりで圧倒的な実践を見せてくれた、そのすぐそばにサバカラスさんが現れ、今度はライザさんが「俺もまだ負けるな」となった。奈良のリュウさんも、Xで発信している姿を見かけて声をかけたら、発表の場に出てきてやはりすごかった。QNKSエキスポを自主開催した実践者も、ポンと出てきたら驚くほどの実践をしていた。

まだ埋もれている実践者がいる、という予感は尽きない。全国各地に、実践歴7年、本が出る前からやっているという方がいて、それが顔を出すたびに場全体に「まだまだ生きるんだ、俺は私は」という感覚が刺激される。この循環が、コミュニティの中で動き続けている。

唯一の基準は「教室での回転数」

重要なのは、この場への参加そのものが実力の条件ではないという点だ。

「ムッキムキになるにあたって、唯一の条件は、教室の中で自分がけテぶれとQNKSを回しまくるという、それだけ。」

コミュニティの幹部と仲良くなることでも、チャンネルに毎日投稿することでも、特定の活動に参加することでもない。評価基準はほぼ、教室での実践の回転数だけだ。だから、いきなりノーマークで現れた実践者が圧倒的な事実を出して、場全体がひっくり返るようなことが起きる。

これはチェスや将棋に近いゲーム設定に見える。協会の幹部と仲良くしなければ実力者として認められないということはない。結果を出せば、それだけで認められる。実力がそのまま場に作用する。

けテぶれ×QNKS
けテぶれ×QNKS

けテぶれとQNKSを教室で「やってみる⇆考える」を繰り返し回し続けること——この一点が、この場の共通言語であり、評価の基盤になっている。先生たちの間でその共通言語が育ちつつあるのが、今のけテぶれコミュニティの姿だ。

違いが、永久に刺激し合う

最後にもう一つ気づいたことがある。「よく見ると、それぞれに得意が違うというか、尖りが違う」ということだ。

体育の授業づくりが突出している人、QNKSの活用が深い人、研修のデザインに長けた人——それぞれが自分の出力最大になるところで圧倒的なものを出す。そうするとザワザワと場が動き、誰かが悔しがり、また実践に戻っていく。

全員の違いが全員を刺激していく。 だから「永久に刺激し合う」のだ。多様な尖りを持つ実践者が同じ場にいることが、コミュニティを腐らせずに回し続けるエンジンになっている。

まとめ:実践事実がコミュニティの健全性を守る

コミュニティの健全性を保つ最も強い力は、外からの批判ではなく、圧倒的な実践との出会いによって内側に生じる自己省察にある。

  • コミュニティへの所属が実力の条件ではなく、教室での実践の回転数が評価基準になる
  • 実力者ほど、新たな実践者の出現に揺さぶられ、また実践へ戻っていく
  • それぞれの尖りの違いが、互いを永久に刺激する循環を生む

けテぶれコミュニティは閉じた内輪の場ではなく、公教育を変えるために実践の熱を外へ広げる場として育っている。その健全さは、制度や批判の仕組みだけでなく、圧倒的な実践事実が繰り返し現れることによって保たれている。教室での回転数を増やし続けることが、この場を豊かにしていく。

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