教育行為には、子どもの自由を一時的に制限するという権力性が伴います。だからこそ教師は、教員免許に付与された力を安易に行使せず、何を求め、何を任せるのかを慎重に考え続けなければなりません。表面的に従順な姿を信頼や成長の証と受け取ってしまうとき、子どもの奥底に積み重なる不信や諦めが見えなくなります。一斉型の授業を全否定するのではなく、不要な命令や管理がいかに子どもを傷つけるかを自覚した上で、子どもを「信じて、任せて、認める」関わりへ近づくこと。それが本稿の問いかけの核心です。
教育行為は、子どもの自由を一時的に制限する
人権の授業を準備するにあたって、自分の日常的な実践を人権教育的な視点で見直してみると、「毎日人権教育をしているじゃないか」という気づきに至ることがあります。それは同時に、逆向きの問いを突きつけてもきます。
「教育行為は、本質的に人権侵害行為である」
これは極端な主張に聞こえるかもしれませんが、丁寧に読み解くと見えてくるものがあります。自由を希求するという権利が人間にはある中で、「これをやれ」「こちらに座れ」と管理し命令するのが教育の日常です。それ自体が、本来の意味では自由の制限に当たります。
しかしその行為が「許される」根拠として位置づけられているのが、教員免許という制度的権限です。教育の名の下に、子どもの行動を制御することが社会的に認められている——それが私たち教員免許保有者の立場です。
だとすれば、その権限を行使するにあたって、私たちは非常に慎重でなければなりません。何をやらせるべきで、何を子どもたちに任せるべきか。その問いに、免許保有者として深く広く思考を向けているかどうかが問われます。
その自覚なしに、あれをしろ、これをしろ、なぜやらないんだという言葉をくり返していれば、それは毎日毎日、子どもたちに人権侵害的な関わりをしていることになりかねません。
不要な一斉指導が積み重なるとき
一斉指導の構造について、こんな視点から考えてみてください。
45分間の授業を、教師が設計したレールの上を全員に走らせる形で進めようとしたとき、どれだけの数の命令と管理が必要になるでしょうか。試したいときに「やめなさい」、立っているときに「座りなさい」、手を挙げないときに「手を挙げて」。子どもたちは、その都度、自分の行動を制限し、自分の思考を切り上げ、教師の意図に合わせようとしています。
子どもたちはよくお付き合いしてくれます。しかしそのお付き合いの実態は何でしょうか。
自分の動きたい衝動、考えたい衝動を抑えて、外側からかかる命令に従い続けること。その負荷は、一斉型の授業では相当に高くなります。
ここで明確にしておきたいのは、一斉指導がすべて問題だということではありません。必要な指示は当然行うべきです。しかし、なくても動ける場面、任せても回る局面で、それでも教師が指示を出し続けるとき、不要な命令は人権侵害行為につながっていきます。
この区別を意識できているかどうかが、教師の関わりの質を大きく左右します。
表面的なよさを、信頼と取り違えない
教室に「扱いやすい子ども」がいるとき、教師はどう感じるでしょうか。指示がよく通る、手を挙げる、授業の流れに乗ってくれる——そういう姿は、一見すると学級が落ち着いている証拠のように映ります。
しかし立ち止まって問いかけてほしいのは、その姿の奥側です。
「その子どもたちの奥底に、学校への不信感、やっときゃいいんだろという感覚はないか」
人権侵害的な関わりが日常的にくり返されると、子どもたちの中に二つの反応が生まれます。一つは、みずみずしい感性があるうちに違和感として表れる反発。もう一つは、諦めです。
諦めた子どもは、荒れません。言われたとおりにします。でもそれは服従であって、信頼ではありません。自分の主義主張を表明することを諦め、外側に「いい子の仮面」を貼り付けて、その表面で何とか評価をやり過ごそうとする状態です。内側では、自分のコアだけを守りながら。
これは表面的な適応であり、主体的な成長ではありません。自分の人生を自分で引き受けるような態度が育っていない状態です。そしてそのことに教師が気づきにくいのは、教室が「静かで落ち着いている」からです。
子どもが自分の感覚を守るために世界を信じることをやめ始めたとき、それはまだ「荒れる」手前の、もっとずっと深いところで起きています。
行事は、了承なき要求になっていないか
行事が終わった後に子どもたちが荒れることがあります。その原因を子どもの特性や家庭の問題に帰することは多いですが、別の角度からも問い直してみてください。
行事の準備や当日の過程で、子どもたちの人権が不必要に侵害されてはいなかったか。
たとえば音楽会の舞台で、姿勢が崩れた瞬間に「フラフラするな、立て」と指示が飛ぶとき、子どもはなぜそうしなければならないかを納得していません。音楽会に取り組むこと自体、いつ子どもたちの了承を得たのでしょうか。体育でも音楽でも、「やるのが当然」として進んでいく中で、子どもの同意や納得は置き去りにされていることがあります。
嫌なら出るなという言葉が出たとき、子どもの側は「立たなくていいなら立ちません」と即座に返せるはずです。でもそれが許されない構造の中で、子どもたちはよくお付き合いしてくれています。
そしてその蓄積が行事の後の荒れとして出てきたとき、原因を子どもや家庭に向けるだけでは、本質は変わりません。
何を求め、何を任せるのかを問い続ける
ここまで書いてきたことは、「だから教師はダメだ」という断罪が目的ではありません。語り手自身も、完璧にこれができているという前提で話すつもりは全くなく、研鑽の途中です。思考に思考を重ね、試して作って壊して、今もその最中にあります。
ただ、道半ばであるからこそ見える問題意識として、一度言葉にしておきたかったことがあります。
教員免許として付与された権力を、あまりにも簡単に行使しすぎてはいないか。
その自覚が出発点になります。そこから初めて、子どもに対して「信じて、任せて、認める」という関わりに近づいていくことができます。逆に言えば、「疑い、管理し、否定する」向きの力を日常の中で無意識に行使し続けているとき、子どもとの間に本当の信頼関係を築くことは難しい。自分の人権を尊重してくれない人を、信頼することはできません。
自分のクラスの子どもたちが、自分の人生を自分で引き受けようとできているか。学級の担任である自分は、そういうことができる空間として、そしてそれを支えてくれる人として子どもから見られているか。
その問いを持ち続けること自体が、教師としての仕事の中心にあると思います。
教員不足や教育の課題が複合的に重なる今の状況だからこそ、一人ひとりの教師が自分の関わりを見つめ直す問いは重要性を増しています。難しいことを言っているのではなく、ただシンプルに、子どもを信じて任せるための判断力と覚悟を、免許保有者としてどこに置くかという話です。