教員研修に「定番メニュー」は存在しない。葛原祥太は、学校・自治体の現在地・目的・目標をヒアリングしながら、完全オーダーメイドで研修の場を設計する。参加者がただ聞くだけ・メモするだけの場では、場のデザインとして不十分だという。熱量ある教師個人の実践を大切にしながらも、自腹や勤務時間外の熱意だけに依存する構造では公教育全体は変わらない。次の一手として注目されるのは、自治体主催・参加自由の研修形態だ。全国に向けたオンライン発信が「熱くなれる人の上限を解放する」ものとすれば、自治体研修は「届く範囲そのものを広げる」別ルートとして機能する。
「隠れ家レストランどころか、メニューもない小料理屋」
研修の依頼を受けるとき、葛原氏には提示できる「おすすめ研修メニュー」がない。それは準備不足ではなく、意図的な姿勢から来ている。
連絡先を探し当てるのも一苦労で、依頼したとしても「今回は何を目指したいですか、ニーズは何ですか」と問い返される。葛原氏はそのスタイルを自ら、「隠れ家レストランのような入り口の分からなさ、そして入ったところでメニューもない小料理屋」だと表現する。
> 定番メニューみたいなね、これだけやってればいいですよ、おすすめ研修メニューみたいなことがあるかといえばないわけですよ
これは「なんでもやります」という無秩序ではない。依頼を引き受ける前に、学校の研修計画全体を見せてもらい、地域の様子、学校規模、先生たちの現在地を丁寧にヒアリングする。そのすべてを踏まえた上で、与えられた時間の中でどういう場をデザインするかを一緒に考えていく。
研修は、依頼者の目的・目標・現在地から設計するものだ、という信念が根底にある。
その人の中に、その会の中に、ちゃんと目的がある。その目的のために目標があり、そのための手段を一緒に作っていく。口を開けて待っておいてくださいという態度は取りたくない、と葛原氏は言う。これは研修に限らず、子どもに対しても大人に対しても変わらないスタンスだ。
教師が「ただ聞くだけ」では、場のデザインとして甘い
研修の場をデザインする上で、葛原氏が繰り返し強調するのは参加者の主体性だ。

葛原氏は、依頼者が「その学びのコントローラーとして自分を呼ぶ」という言い方をする。つまり、自分は研修の内容を一方的に届けに行くのではなく、参加者自身が学びを動かすコントローラーの役割を担えるよう、場を構築する側として機能する。そこでの主役は教師たちであり、葛原氏はあくまで設計者・ファシリテーターとして立つ。
聞きっぱなし、メモを取るだけでは「主体的な行動の範囲」が狭すぎる。
> 先生たちがただただ聞きっぱなしとか、ただメモを取ることぐらいしか主体的な行動の範囲がないとかみたいなことでは、やっぱり場のデザインとしては甘いと思いますので
一発勝負の飛び込み研修であっても、先生たち主体の学びの場として機能することを目指す。それがちょっとずつ実現しつつあるという実感が、語りの中に滲んでいる。
次の一手は「自治体」――個人の熱を公教育の仕組みへつなぐ
熱量の高い教師個人がいる。その人たちが学び、実践し、また学ぶ。そのサイクル自体は確かに機能している。けれども、それだけでは限界がある。

「できる人からやっていく」という熱の広げ方は、着火点としては有効だ。しかし局所的な広がりにとどまりやすいという構造的な課題もある。そこで近年、葛原氏が注目しているのが自治体との連携だ。熱量のある教師が自治体に働きかけ、「参加自由の研修会」として自治体主催で開催する形を仕組んでいく。
> 熱量のある先生たちが働きかけて自治体の研修としてこういうことをどんどん仕組んでいけないかみたいな話もしています。これめっちゃ熱いと思っていて
この構図には実利もある。自治体主催になることで、参加する教師は自腹を切らなくてよくなる。葛原氏としても、参加者に直接費用を求めるという形を取らずに済む。研修への関心やニーズがある教師が、強制でもなく、自腹でもなく、「参加してみないか」という案内のもとで集まってくる。葛原氏はこの形を「ウィンウィン」と呼ぶ。
「自腹・休日」の熱意だけに頼る構造では、公教育全体は変わらない
現状の教員研修には、大きな構造的問題がある。学びに意欲的な教師が、休日に自費で研修に参加している。葛原氏はこの構造に強い違和感を覚えている。
> 仕事で本当に教室に還元したいと思って学ぶ先生がなんで自腹を切るの、という話なんですよ。それ本当にねずっと、どうにかしたいと思っていて
勤務時間外にやっていることも同様だ。子どもたちの学びのために動いているはずの仕事が、なぜプライベートな時間と財布から賄われなければならないのか。
熱量の高い教師が、お金を払っても、休日でも参加する。そのこと自体には深く感謝している。しかし、それをしなければ公教育の質が上がらないという構造にはしてはいけない。
> 自腹も切らせたくないし、できるだけ勤務時間内で学べるような仕組みというものをやっぱり作らないと、公教育を変えていくということにはならないんだろうなというふうに思う
これは熱量のある教師への批判では全くない。むしろその熱量に深く敬意を払うからこそ、その熱意を「個人の持ち出し」に終わらせない仕組みをどう作るか、という問いかけだ。参加自由の自治体研修はその実装の一つとして、今まさに動き出しつつある。
全国発信という「上限の解放」と、届く範囲を変える自治体研修
葛原氏は SNS や音声配信を通じた全国発信を長年続けてきた。その意義をこう言い表す。
> 熱く学びたい人はいくらでも熱くなれる仕組みというのを僕は全国に向けて作っているわけですよね。これは上限の解放です
知りたい人が、いつでも、いくらでも学べる環境を整えること。これが一つの柱だ。全国の各地で、初対面なのにもう葛原の実践についていろんなことを知っているという教師が点々と存在している。それはこの「上限の解放」の構造が機能している証拠でもある。
しかし、オンライン発信には参入障壁がある。SNS をやっていない人、音声配信アプリを知らない人、コミュニティツールの使い方が分からない人には届かない。自治体研修はそこを補う別ルートとして機能する。
> 自治体でチラシが配られて、自分が知っている市役所の何階で会が行われますとなると、リーチできる範囲が格段に広がる
面積的には狭くなる。対象は市区町村単位の教師に絞られる。しかしその範囲の中では、オンライン発信では届かなかった人に確実に届く。全国への上限の解放と、局所的なリーチの深さ。この二つを組み合わせることで、公教育のボトムアップ改革はより実質的なものになっていく、というのが葛原氏の見立てだ。
子どもを「信じて、任せる」教育観へ向かうための考え方・哲学・手段として
けテぶれや QNKS(問い・抜き出し・組み立て・整理)の実践は、押しつけるものではない。葛原氏はそこを明確に述べる。
> 子どもたちを信じて、思いやって、認めて、任せるということをやりたい。それで学びを輝かせたいと思っているし、そこに向かう考え方・哲学・手段としての僕の実践
けテぶれや QNKS は、その教育観に向かうための具体的な手立てとして位置づく。だからこそ、その確信があれば「けテぶれをやらない」という選択も主体的にあり得る、と続ける。どちらがいいか悪いかを外から決めてもらうのではなく、自分でその問いに向き合えるだけの回転数があることが前提になる。
研修の場でも同じ論理が働く。参加者がただ聞くだけでは「どっちがいいの、はっきり言って」という態度にならざるを得ない。しかし主体的に考えられる場が整えられていれば、自分自身で判断しながら実践を深めることができる。
研修を完全オーダーメイドで設計すること、参加者の現在地・目的・目標から場を組み立てること、自治体の仕組みを通じて熱量を広げること——その一つ一つは、教師自身が主体的に学べる環境を作るという、一本の線でつながっている。そしてその先に、子どもたちを信じて任せる教育観を現実のものにしていく、という大きな目標がある。